タイトルのまんまなんだが、車輪の下(ヘルマン・ヘッセ著)をポツポツ休みながら3ヶ月くらいかかって読み終わった。
その期間に宇宙兄弟などが入ったので仕方ない。(のだろうか)
なんせ読むのが遅いのだ。
ブログを書く気もなかったのだけれど、独りインプットしたものがどこにも還元されないで
なんとなく過ぎ去って行ってしまうのも寂しい?(勿体無い)から。。
車輪の下を買ったのは2017年の秋のあたまで、あまりにも門がお堅くて、
一生読まないんじゃないかという様な面持ちで本棚で仮眠をしていたのだけれど、
何かの拍子に散らかった机の上に降りて、何かの拍子に手にとって、1ページ、2ページ、3ページ、4ページと読み進めていくうちに、ああ読んでみよう。という私的ビックバンが起こったのでした。
内容は周りの友人たちから聞かされていて、それでまあ就職する前にお前はこれを読んで戒めろ、と脅かされていたので、まあさぞかし暗くて陰湿な物語なのだろうと、思い込んでいたのだけれど、全然違って。
とてもとてもとても美しい物語だと思った。情景の描写も登場人物たちの心理描写、人格描写も、繊細にリアルに描き出されていて驚いた。
ハンスが疲れて行って、車輪の下に押しつぶされてしまう過程も、とても分かる気がした。
社会や人間関係の歯車に当てはめられているけれど、名誉心とか、自分の欲望とかにも当てはめられる。
自分の場合はロックンロールだった。自分はある種、全く進めないで何をしたら次の一歩が踏み出せるのか分からなかった、大学四年の夏頃、本気でこのまま音楽だけを目指したら死ぬんだろうなあ、と、全く流れの止まった北側の部屋で、バイトの昼下がり前に布団の上で思っていたことを思い出す。
それくらい独りでがんじがらめだったから、就職(この響きがかっこ悪くて大嫌いなのだけれど、)して名刺をもらったときに、なぜだか不意に救われた気持ちになった。
渡された「営業」という肩書きが、心の鎧の様だった。
自分の心中で一番肝心で重要で、生きることとつながっている様なことで悩まなくて済むからだ。
それは今もまさに続いて、そのシェルターから時々、(というか頻繁に)顔を出して音楽に向かう、このやり方が、自ら命を保って進んで行く術として、その場所から確かに、何歩も進めている実感がある。世界を少しずつ広げて、自分がどこへ行くべきかという、感覚が明確に見つけられている。それもまあ運良く。
物理的な面(朝起きて夜寝るなどの生活リズムがちゃんとしてるところ、つまみ食いしないなど)でも、金銭的な面でも、精神的に安定してるんだと思う。これは甘えなのかもしれないけれど、あの、でも仕事ではつまんなくて別の意味で色んな悩みがあるんですけど、。
ライブも時間的にも、体力的にも、
まあ自分は一度、音楽の車輪に一度、二度、押しつぶされかかっているっていう事だと思う。
それくらいポテンシャルがなかったんだろう。
今はあの頃より色んなモノが見えてんな。と、それだけでも大きな収穫で。
エゴイズムなエネルギーがもうちょっとちゃんと人に向かわないと、まだ進めないのでしょうが。
車輪の下の話に戻るけれど、これを読んで没頭しだすと、100年以上前の時代を本当に歩いている様な感覚になる。今と何にも変わらない。人と人とのあり方、関係、心情、ここまでつながると、700百年前も、もしかしたら紀元前でも、おんなじ感じだったんじゃないかなと思う。
もちろん狩猟の時代と、文明開化が始まってから一種の人間のあり方って違うのだろうけど、それ以降っていのはずっとこういう感じなんだろうな。とわかった気がしている。
ヘルマン・ヘッセについて色々、訳者の高橋健二さんの解説やら年譜、ウィキペディア、youtubeなどみて、少しだけ深く、知れた気がする。1800年代に生まれた人でここまで深く理解した人は初めてだった。こんな人が生きていたんだな。と思う。
第一次世界大戦が始まる時、ヒトラーがドイツ政権のトップに立った時、第二次世界大戦を潜りぬけた時、それらに対する憎悪や、葛藤や、自分の役割、極めた上で着地した場所は、自分を理解してついてくる人たち一人一人と向かい合い、文通を通してコミュニケーションするという事だった。
こんなに真実の上に立って戦っていた人がいて、自分の価値観も大きく高ぶってしまった様な気さえする。
文章が下手くそでうまく伝えられないけれど。明治に生まれて生きた人達が、どんな風に考え、感じて生きてきたのかが垣間見れて嬉しかった。ドイツの人だけど。
最近はヒットラーの時代のことに偶然触れることが、多いな。
全ての歪みはエゴイズムから生まれる様な気がする。
こうして文を打っていると自分の浅さが身に染みるね。