火星の地上、シチノコの森

遠くの空で雷が鳴っている

ナメクジに土下座

青葉市子は神だとずっと思っている。

書きかけのブログを2週間くらいかけて一行一行精査して書いていたけど、消した。

あ、みたいなノリで。

 

ナメクジをデコピンで弾き飛ばしてやった。

彼はコンクリィトの壁にぶつかって、土の地面に落ちた。

コンクリィトの灰色の壁に深色の染みができているのが、夜の部屋からもれる光で確認できた。

いや、懐中電灯の光だったかもしれない。

だってそれはもう2ヶ月くらい前の夜のことだ。

曖昧な記憶なのだ。

いや、懐中電灯の光だったに違いない。

なんでそんなことをしたかというと、自分用に庭で栽培し始めた芽生えたてのひょうたんの芽を

カジってやがったからだ。

それを見つけて即座に弾き飛ばしてやったってわけ。

でもその翌日、自分はなんてことをしたんだと思った。一個のいのちの運命を考えてしまった。(バカなのか)

今から庭に戻ってナメクジに土下座したいと思った。

なんてことがあったのも、もう2ヶ月も前のことだ。

ひょうたんは二枚の双葉の時点でナメクジにカジられると100%枯れる。

そこにタカっていた双葉も枯れた。

それでも種を蒔いて芽吹いたひょうたんの種は結構いっぱいあって、20以上、多分最初あった。

 

そんで面白いのが、おんなじ形した種からおなじ土で育てても、育つスピード、葉の生え方や大きさにそれぞれ個性と、弱いもの、強いものがある。

ある一定の大きさまで順調に育ったやつ、美しい双葉で生き生きしていたのに突然くすんでうどん粉病(葉の表面にうどん粉をまぶしたような病気)になって枯れていくもの、元気に育ったから大きな鉢に植え替えた途端、死んでしまう芽。

言っちゃ悪いけど、人間と同じだと、思った。特に比べてしまうのが、小学生からずっと幼なじみできた地元の同級生。なんでお前が引きこもるんだよ、みたいなことに、まあ26年も生きていると、自分を含めて色々な変化がある。鋭い釘だらけの冷たい鉄の冷凍都市で、確かに生きていくのは大変だ。自分だって、本当に運良く今があり、なんとか気合いで乗り越えた波ばっかりなのだ。うまくやっていく奴は、幼い頃から勢いがあるものだ。

それはひょうたんの苗も全く同じことだった。でも一見して、どれが順調に本葉を大きく広げて、緑のカーテンになるべくツルを点に向かい伸ばすのか、全くもって素人の私(または俺)には見当がつかない。

 

そうしてナメクジに土下座をしたいとまで反省してから2ヶ月がたった今、はっきりと育った芽と枯れた芽、間引きで引き抜いた芽、まだくすぶっている芽にわかれた。

 

まあ同時に鶏頭の花(毛糸の脳みそみたいな花)も育てていて、それはひょうたんと同じような結果だった。芽吹いたタネの5%くらいがちゃんとした花になりそうな様子(まだ1個しか咲いてない)だ。

 

また、今まで知らなかったんだけど、トマトやキュウリ、ひょうたんなどのツルを伸ばすような植物は、あるがままに枝を伸ばして自然にさせておく(のが良い場合もある、だだっ広い場所なら)のが良いわけではなく、ちゃんといくべき場所に栄養を届けるように余計な枝や、弱い実を切り捨てたり、摘芯(てきしん)といって一番太く先頭に伸びる芽先をちぎって、子づる(別れていく枝の部分)や孫づる(子づるから別れいてく枝)を伸ばして言ったほうが、たくさんの実をつける、という方法を(業界では常識なのだろう)知った。

 

まるで人生や人類規模の縮図を種たちから教わっているみたいだ。なんだか自宅の庭から、俯瞰して世界を見ているようだ。宇宙そのものが、こういう連鎖なのだろう。

 

やっぱり手を加えていかないと、いいものは出来ない。何かを切り捨てて生きないと美しい果実は実らない。そう教えられている。

 

言うなれば今の人間社会なんて、ごちゃごちゃに芽が生えて行って訳がわからない無法地帯のようにも思える。必要以上にみんなが発信して薄っぺらな娯楽にみんなの目が集中して気がふれかけたりしている。

才能のないものが大声を上げる時代。だからさ、あたしは昭和に魅了を感じたりする。

当時を生きたら、そりゃあ生きづらく嫌だなと思うこともたくさんでしょうが、

それでも、なんだか人情の希薄なこの世の中に(自分も染まったりする)どんな価値を見出せるのだろう。みんながみんな栄養の行き渡らない、トマトのようにも見える。

本物しか人前に出れなかった時代は美しいよ。

 

だから、せめてもの反逆心として、めんどうくさいことに突っ込んで生きる。植物を育てたり、金にならないことに精を出したり、しよう。

嫌でも何かの役に立つ生き方で、そこに適度な熱やエネルギーを持足せられたらいいな、

とは、思っている。

 

まあ生きてるだけで摩訶不思議で、なんで人間やってるのだろう。人間ってなんだよ、と思う。

物事一致面ではなく、すべての人間、生き物、出来事が多面的なサイコロだとすれば妙に納得行く。それが平面なのは全部偽物で、どう見ても一面にしか見えない純粋なものがあるなら、それは球体だ。それでまあ、

 

 

いつもの通り支離滅裂だ。

 

今日のCD :青葉市子/アダンの風